プロ野球「完全試合」歴代達成者まとめ!惜しかった「準完全試合」も

プロ野球の記録で「完全試合」というものがありますが、これまでどのような選手が達成してきたのでしょうか?

今回はプロ野球「完全試合」歴代達成者について徹底調査!

あと一歩及ばなかった「準完全試合」を記録した選手についてもまとめてみました。

「完全試合」とは?

「完全試合」とは野球やソフトボールの試合における記録の一つで、相手チームの打者を一度も出塁させずに勝利することです。

完全試合の成立には4つの条件があります。

条件1:無安打・無得点

1つ目の条件は「相手チームを無安打・無得点で抑える」ことです。

つまり相手チームを0点に抑える「完封」ではなく「ノーヒットノーラン」が必須条件となります。

1本でもヒットを許してしまうと完全試合は成立しません。

条件2:出塁をさせない

2つ目の条件は「相手チームの打者の出塁を許さない」ことです。

そのため、エラーやフォアボール、デッドボール、ボーク、振り逃げで出塁させてしまった場合は完全試合にはなりません。

また、延長戦になった場合も最後まで出塁させないことが条件となります。

条件3:勝利すること

3つ目の条件は「投手が勝利を収める」ことです。

「引き分け」では成立せず、さらに「コールドゲームでの勝利」でも完全試合は成立せず参考記録として残ることとなります。

条件4:投手一人で達成すること

4つ目の条件は「投手一人で達成する」ことです。

投手一人で9回まで投げ抜き、無安打・無得点・無出塁で勝利を収めることが求められます。

以上の4つの条件を達成した際に「完全試合」が成立します。

また、ランナーを一人だけ出塁させてしまった場合は「準完全試合」という記録になります。

【関連】野球の完全試合とノーヒットノーランの違いは?成立条件など徹底解説!

プロ野球「完全試合」歴代達成者一覧

日本プロ野球の完全試合を達成した投手は15人います。

選手名をクリックすると各選手の紹介にジャンプできるので、気になる選手がいたらぜひ読んでみてください。

選手名 球団 年月日 対戦相手
藤本英雄 巨人 1950/6/28 西日本
武智文雄 近鉄 1955/6/19 大映
宮地惟友 国鉄 1956/9/19 広島
金田正一 国鉄 1957/8/21 中日
西村貞朗 西鉄 1958/7/19 東映
島田源太郎 大洋 1960/8/11 阪神
森滝義巳 国鉄 1961/6/20 中日
佐々木吉郎 大洋 1966/5/1 広島
田中勉 西鉄 1966/5/12 南海
外木場義郎 広島 1968/9/14 大洋
佐々木宏一郎 近鉄 1970/10/6 南海
高橋善正 東映 1971/8/21 西鉄
八木沢荘六 ロッテ 1973/10/10 太平洋
今井雄太郎 阪急 1978/8/31 ロッテ
槙原寛己 巨人 1994/5/18 広島

藤本英雄

日本プロ野球史上初の完全試合達成者。

1940年代から1950年代にかけての巨人の主力投手で、通算成績で防御率1.90・勝率.697の日本プロ野球記録を樹立。

1950年6月28日の完全試合達成はプロ野球史上初であり、NPB史上最年長(32歳1ヶ月)の記録となっています。

ちなみに6月28日は、藤本選手が完全試合(パーフェクト)を達成したことにちなんで、なぜかスイーツの「パフェの日」にされているようです…。

武智文雄

草創期の近鉄パールスの主力投手の一人として活躍した選手です。

1955年6月19日にパリーグ史上初の完全試合を達成

また、同年8月30日の大映戦でも9回1死までパーフェクトに抑えていました。

宮地惟友

専売金沢でエースとして活躍し、1952年に国鉄スワローズへテスト入団した投手。

1956年9月19日に石川県営兼六園野球場で行われた対広島カープ戦で球団初・プロ野球史上3人目となる完全試合を達成しました。

79球での完全試合達成は現在でも日本プロ野球の最少記録となっています。

金田正一

国鉄スワローズと読売ジャイアンツで活躍し、プロ野球史上唯一の通算400勝投手。

通算奪三振(4490)、通算完投(365)など数々のNPB記録を保持し、史上2人目の沢村栄治賞3回受賞者です。

1957年8月21日の対中日戦で完全試合を達成NPBの完全試合達成者では唯一の左腕投手となっています。

西村貞朗

西鉄ライオンズの主力投手として活躍した選手。

1958年7月19日に駒澤野球場で行われた東映フライヤーズ戦で史上5人目の完全試合を達成。

島田源太郎

大洋ホエールズの投手として活躍。

1960年8月11日の大阪戦で史上6人目の完全試合を達成しました。

また、20歳11か月での完全試合達成はNPB史上最年少記録となっています。

森滝義巳

国鉄スワローズで活躍した投手。

1961年6月20日の中日ドラゴンズ戦で、投球数113・外野飛球6・内野飛球1・内野ゴロ15・内野ライナー1・三振4の内容で完全試合を達成しました。

佐々木吉郎

社会人野球の実力者として期待され、大洋ホエールズで投手として活躍。

1966年5月1日の対広島戦で完全試合を達成しますが、実は先発の予定ではなかったそう。

1回終了時点で交代の予定でしたが、投手コーチから「ヒットを1本も打たれていないから、打たれるまで投げてこい」と言われ最後まで1本のヒットも打たれることなく完全試合を達成したのだそうです。

田中勉

1960年から1969年にかけて西鉄ライオンズ・中日ドラゴンズで活躍した投手です。

1966年5月12日の対南海ホークス戦で完全試合を達成。同年は最多奪三振のタイトルを獲得しベストナインにも輝きました。

また、佐々木吉郎に続いて1シーズンに2人目の達成を果たした唯一の例です。

1969年に週刊誌にプロ野球八百長事件(黒い霧事件)に絡んだとして名前が挙がると中日ドラゴンズを自由契約となり、そのまま現役を引退。

外木場義郎

1964年から1979年まで広島カープで活躍した投手です。

1968年9月14日の対大洋ホエールズ戦で完全試合を達成。また、現役時代に3回のノーヒットノーランを達成しています。

1979年に広島カープの初日本一達成を機に現役を引退。

佐々木宏一郎

1962年から1981年まで大洋ホエールズ・近鉄バファローズで活躍した投手です。

1970年10月6日の対南海ホークス戦で完全試合を達成。同年には最高勝率のタイトルも獲得しました。

また、大阪球場でのプロ野球の完全試合はこの試合で3度目でした。

高橋善正

1967年から1977年まで東映フライヤーズ・読売ジャイアンツで活躍した投手です。

1971年8月21日の対西鉄戦で完全試合を達成

試合後の記者陣の質問に「西鉄ライオンズは黒い霧事件で主力選手が退団し弱体化していたからできた」と冷静に答えたエピソードがあります。

八木沢荘六

1967年から1979年まで東京オリオンズで活躍した投手です。

1973年10月10日の太平洋戦で史上13人目の完全試合を達成カウントが3ボールまでいかなかった唯一の試合です。

同試合は中継ぎ登板が多く規定投球回数に足りなかった八木沢選手に、最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発登板した試合でした。

今井雄太郎

1971年から1991年まで阪急ブレーブス・福岡ダイエーホークスで活躍した投手です。

1978年8月31日の対ロッテ戦で完全試合を達成日本プロ野球史上唯一の指名打者制度での完全試合達成であり、昭和最後の完全試合となりました。

また、後述する槙原寛己選手の完全試合達成の際には解説として球場に居合わせており、達成の瞬間を目の当たりにして涙を流していました。

槙原寛己

1982年から2001年まで読売ジャイアンツで活躍した投手です。

1994年5月18日の対広島戦で平成初の完全試合を達成。この時の槙原選手の完全試合達成を最後に日本プロ野球では完全試合達成者が途切れており、平成唯一および20世紀最後の完全試合達成者となりました。

惜しかった「準完全試合」達成者

「準完全試合」とは、ヒットや四球・エラーで走者を一人だけ出塁させてしまった場合の完封試合のことを言います。

前述の通り、槙原寛己さん以来は完全試合達成者が出ていない日本プロ野球ですが、惜しかった「準完全試合」として参考記録を残した選手についてもまとめてみました。

現在、準完全試合を記録した選手は4名います。

田宮謙次郎

1949年から1958年まで大阪タイガース・毎日オリオンズで活躍した投手です。

1950年3月16日の対国鉄スワローズ戦では9回二死まで一人の走者も出しませんでしたが、27人目の打者・中村栄選手の打球が三塁手・藤本富美男選手の判断ミスで内野安打になったことで完全試合を逃しました。

その後の田宮選手は肩を痛めて打者に転向したため、この準完全試合が投手として最後の白星となりました。

別所毅彦

1942年から1961年まで南海ホークス・読売ジャイアンツで活躍した投手です。

1952年6月15日の対松竹戦で9回二死までパーフェクトに抑えますが、松竹のブルペン捕手であった神崎安隆選手に安打を打たれ準完全試合となりました。

また、神崎安隆選手にとってはこの試合の安打がキャリア唯一の安打でした。

村田元一

1957年から1969年まで国鉄スワローズ(サンケイアトムズ)で活躍した投手です。

1962年7月12日の対阪神タイガース戦では9回二死までパーフェクトに抑えますが、27人目の打者・西村知良選手の打球が小石に当たってイレギュラーとなり一塁手・星山晋徳選手がエラー。

これが内野安打の判定となり完全試合は達成とならず、ノーヒットノーランまで逃してしまいました。

また、村田選手は1958年4月26日の大洋戦でも準完全試合を記録していたためこれが2度目の準完全試合でした。

杉内俊哉

2002年から2018年まで福岡ダイエーホークス・読売ジャイアンツで活躍した投手です。

2012年5月30日の対楽天戦で9回二死までパーフェクトを記録していた杉内選手。27人目の打者・中島俊哉選手を1ボール・2ストライクまで追い込み完全試合達成まであと1球に迫りました。

しかしそこから2球ボールを続けフルカウントとなり、6球目の内角低めの直球は高さ・コースもギリギリの微妙なところで判定はボールに。

四球の直後に聖澤諒選手を見逃し三振に打ち取り、記録はノーヒットノーランとなりました。

2018年の現役引退の際に、杉内選手はあのボール判定について「ボールですね。中島にはよく打たれていた。僕が逃げたんでしょうね。」と回想しています。

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まとめ:完全試合達成者は未だ途切れたまま

プロ野球の完全試合達成者についてのまとめは以上です。

完投自体が難しくなっているという現代の野球では、完全試合の達成はかなり難しいものなのだろうなという印象を抱きました。

2000年以降に完全試合達成に最も近かづいたのは杉内俊哉選手ただ一人ですが、この記録からもいかに杉内選手が優秀な投手だったかが伺えますね。